防衛省がAI技術を用いSNSを通じた世論誘導の研究に着手したというニュースを読んだ(共同通信、12/9付)。影響力があるとされるインフルエンサーが「無意識のうちに」政府の軍事防衛政策を後押しするような情報を発信するように仕向け、そうした発信により国民が特定の国への敵対心を醸成したり反戦意識を翻すといった「トレンド」を作り上げることを目標としているという。たかがインフルエンサーの発信によって世論が特定の主義主張へと流されるだろうと目論むとは、私たち国民も見くびられたものだと思うが、一方で、官製だろうがなかろうが、「プロパガンダ」播種の担い手が常に自身のそうした役割を自覚する訳ではないのも確かだ。「プロパガンダ」というと、全体主義国家が勇ましい音楽とともに声高に元首称賛を謳い上げるシーンが想起されがちだが、実際はそんな単純なものではない。さらには、歴史を見れば一見政治とは無関係の芸術活動がそうしたプロパガンダ(あるいは国家による政治メッセージの広報)と関わってきたことは歴然としている。
ここ数年、冷戦期の合衆国政府による文化プロパガンダで音楽が担った役割について研究しているが、国務省が54年?84年にかけて実施した「cultural presentations」プログラム(合衆国政府予算による対外文化活動助成事業)に関する一次資料が示すのは、多くの一見「純粋な」芸術行為(ここでは「芸術音楽」の演奏)が合衆国政府の広報としての役割を担っていたという事実である。たとえば左翼志向を持つ西ヨーロッパの知識層が共有する「芸術後進国アメリカ」像を覆すべく派遣されたフィラデルフィア管のヨーロッパ?ツアー(55年)の成果について国務省内部メモは言う。「フィラデルフィア管の芸術は平和と親善の上に成り立つ相互理解という我々のメッセージに大いに貢献した」(米国国立公文書館所蔵資料)。フィラデルフィア管(あるいは同種の演奏活動を行う音楽家や団体)は意図して合衆国の政治メッセンジャーの役割を引き受けたわけではない。むしろ彼らは、比較文学研究者のマイケル?ロスバーグが言うところの牽連主体implicated subject、すなわち「当該の体制に貢献し、そこに居住し、それを受け継ぎ、あるいはそこから受益しつつも、当の体制を起こしたわけでも統括する立場にあるわけでもない」(Michael Rothberg, The Implicated Subject, p. 1)主体(=直接的?能動的責任を持たない主体)であり、だからこそ自身や他者は彼らの担う広報的役割に伴う責任を看過しがちだ。だが「芸術と政治は別物」というマントラを盾に、私たちは、音楽家が(好むと好まざるとに関わらず)常に音楽を奏でているだけではないことを忘れがちではないだろうか(そして音楽以外の芸術に関わる者も同じだ)。ウクライナ侵攻を受け多くの欧米諸国が自国内でのロシア人音楽家?団体の活動を制限するなか、「芸術に政治を持ち込むべきではない」とでも言うように日本が欧米とは一線を取るのを見るとき、牽連主体もまた、様々な政治的?歴史的?社会的責任を負うという認識を忘れがちな日本人独特の文化を感じずにいられないこの頃である。
写真(上):2014年10月ニューヨークのメトロポリタン歌劇場での《クリングホッファーの死》の上演に抗議する人々。アキレ?ラウル号事件を主題とするこのオペラは上演のたびに「政治と芸術」の交差に関する難しい問いを突きつけてきた。
【プロフィール】
福中冬子
東京藝術大学音楽学部楽理科教授
ニューヨーク大学人文大学院(New York University, The Graduate School of Arts and Science)博士課程修了(Ph. D. in Historical Musicology)。専門は20?21世紀音楽。主な書著に『オペラ学の地平』(共編、2006年)、『ニュー?ミュージコロジー:音楽作品を読む批評理論』(編訳、慶應大学出版会、2013年)、『ポストモダンの音楽解釈』(東京藝術大学出版会、2021年)、『音楽とは:ニコラス?クックが語る5つの視点』(音楽之友社、2022年)など。他に『Vocal Music and Contemporary Identities』(Routledge, 2013年)、『Musical Entanglements between Germany and East Asia』(Palgrave McMillan, 2021年)などに所収論文。地域猫活動を啓発する大学公認サークル「芸大 猫と地域の共生を考える会」(通称「芸猫会」)顧問。